古事記の奈良大和路 (千田 稔)


 東方出版(2012年12月)

この本は産経新聞の奈良版に連載された「記紀万葉の風景」を本にまとめられたものです。千田稔氏は奈良県立図書情報館館長、帝塚山大学特別客員教授で歴史地理学・歴史文化論の第一人者です。本書は千田先生の人柄がにじみ出てるかのような、親しみやすいそしてわかりやすい本で忍坂も、その中でご紹介いただいています。以下は本書からの抜粋したものです。

 

 死者が葬られた円錐形の山
カムヤマトイワレヒコ(神武天皇)の軍勢は、宇陀から忍坂に至ります。桜井市に忍坂という集落があります。「おっきか」と呼ぼれていますが、円錐形の山が、この他のシンボルのように思われます。かつては、忍坂山とよばれていましたが、今では外鎌山と地図に表記されています。「古事紀」には、忍坂の大室で、多数の凶暴な土着の者が待ち構えていました。そこで、カムヤマトイワレヒコは、敵対する土着の者たちにご馳走を差し出すことにして、土着のもの一人毎に、刀をつけた料理接待係を配置することにしました。そして料理接待係の者に「歌が聞こえると、もろとも切り倒せ」と命じました。その合図の歌が歌われました。以下はこれを現代語に訳してみました。忍坂の大室に 多くの者どもが 来ておる わいな 多くの者どもが おったとしても  強い、強い 久米部らが 瘤太刀や石太刀で  打ち倒してしまおうぞ、強い、強い 久米部らが 瘤太刀や石太刀で 今、打ち倒すよき時だ 歌の内容からわかるように久米部は軍事氏族の久米氏に従った集団であり、それにゆかりの歌を久米歌といいます。前出の宇陀での勝利の宴に歌われたのも「日本書紀」には、久米歌と書いています。

(中略) さて忍坂にもどりましょう。忍坂の大室は、実在していたのでしょうか。岩波文庫の「日本書紀(1)の注に「大字忍坂の北部にある忍坂山の麓に近く多武峰から初瀬に通ずる古道をおむろ越えといい、付近にヲムロという字名もあり、大室に通ずるようであるが、古くからの地名という徴証はない」とあります。私は詳しく調べたことがありませんが、大室が実在したのか、伝承の中で作られたのか、については保留にしておきたいと思います。 忍坂の地は、六世紀ごろに、歴史の舞台として脚光を浴びますが、それについては後日に触れてみたいと思います。「万葉集」に忍坂山をよんだ歌をあげておきましょう。
  隠口の 泊瀬の山 青幡の 忍坂の山は 走出の 宜しき山の 出立の 妙しき 山ぞ あたらしき山の 荒れまく惜しも(巻13-3331)
「隠口の」は泊瀬の枕詞、「青幡」は忍坂山の枕詞で、「走り出」は山のスロープ、「出立」は山の垂直性を意味します。したがって、泊瀬の山と、忍坂の山は、スロープの線が見映えがし、山の垂直的なたたずまいがすばらしい山で、このような美しい山が荒れるのは惜しいことだ、というのが歌の意味です。挽歌として歌われているのは、死者がこの美しい山に葬られたからでしょう。外鎌山北麓古墳群がそのことを示しています。