大和の石仏 文(星野立子) 写真(岩宮武二)


淡交新社(昭和40年7月発行)

著者の星野立子(1903-1984)は俳人の高浜虚子の次女として生まれ父に師事し昭和時代を代表する女流俳人のひとりとして知られています。星野立子が石位寺を訪れたのはおそらくこの本が発行された昭和40年の前年の4月と思われます。この頃はまだ薬師堂と呼ばれていた本堂が残っていた頃で石仏はこの中の厨子の中に収められていました。

また写真を担当されている岩宮武二(1920ー1989)は鳥取県米子市生まれ。元プロ野球選手(但し体を壊しあまり活躍は出来なかった)という珍しい経歴を持つ。退団後フリーのカメラマンとして活躍。国内外でも高い評価を受けている。

以下紹介する文中にもあるように、お二人が同時に訪れたのではありませんがそれぞれ味わいのある文や写真を残している。

 

石位寺 四月二十八日

 

忍坂と書いて何とよむのかと思っていたら、「おっさか」と教えられた。忍坂の石位寺
は、すばらしい石仏があると聞いていたが、先日きたときには寄らなかった。京都から今日は福森さんも参加して、才子、滝子と私の女ばかりである。


大和三山や御陵の見えたりする天理街道を、石位寺を目ざして行く。車はとある家角にとまった。家と家の間に白い道があった。やがて石段となった。そうとうに登ると石位寺。門をはいると左手に本堂。外見はさほどとも思わなかったが、お堂にはいって仰ぐ石仏の美しさに驚いた。整然とした石仏という感じがまず。次にきれいな石仏、そしてついには温かな石仏と見えてくる。上中央の薬師如来は天蓋の下にふっくらと在し、日光、月光菩薩は左右に侍立され、一枚 心の石に浮き彫りになっている。温かく、私にほほえみかけ、話しかけられてくる。お唇にかすかな朱の残っていることが、なお温かく心に通ってくるように見えるのかもしれない。
畳にすわって、いつまでも仰いでいたかった。お住職はお留守であった。

 

紫木蓮こゝにも咲いて日午なり
囀は前山霞遠山に
畝傍山まづ見え来たる霞中
耳成と畝傍濃淡霞中
堂内の暗さ冷たさ外の残花