⑩奈良のかくれ寺(大石眞人)


山と渓谷社(1992年発行)

著者の大石眞人(おおいしまひと)氏は(株)木材新聞社編集長・論説委員長等を歴任されたわが国を代表する木材産業コンサルタントとして知られ著書に『新しい木材産業とは何か』『世界の森林資源』『日本の杉』など。また登山ジャーナリスト、トラベル作家としても著名であり、「温泉の文化誌」『全国いでゆガイド』『温泉ガイド200選』なとの著書がある。

この本は奈良県にあるお寺の中で観光的でない寺に絞って88箇所紹介され石位寺も三尊石仏を中心に適確にポイントを押さえた紹介がされています。以下、本書よ抜粋 。
 
「桜井市外山から大宇陀町西山に向かう、国道166号線に入ると、道は、意外に急な下り坂で忍阪の集落に入る。そして忍阪バス停の所から左に細い旧道を入って行くと、すぐ左手の小高い所に石仏三尊で有名な石位寺がある。
 石段を上ってゆくと、せまい境内に、ささやかだが新しい礼堂と右手に庫裡、そして礼堂のうしろに不似合いなくらい立派な収蔵庫がある。石仏三尊(国重文)は白凰時代の制作と伝わる。石位寺そのものについては、何度も火災にあったようで、かってはかなりの古仏があったといわれるが、某寺の創建にあたってほとんど持ち去られたといわれており、十数年前に改築されたという本堂の中には何もない。背後の収蔵庫に収められた、おむすびを大きくしたような大きな三角型の石に彫られた三尊は、実に見事なものである。しかも保存状態がきわめてよく、まるで昨日彫られたように美しいのもありがたいことである。


石位寺本尊の薬師三尊石仏は、一辺1mあまりの三角形の石に刻まれた浮彫りである。石は大陸渡来といわれる青灰色の綺麗な硬砂岩。高さ1.15m、幅1.5mに3㌢の 厚肉浮彫りで、両手を組んだ童形倚座の中尊、左右に合掌して脇侍の童形両菩薩が立っている。この石仏は、もともとは彩色仏であったらしい。しかし何分にも、1300年前の古い昔の歴史の中の事なので、はっきりとはわからない。ほとんどが剥落しているが、中尊の唇や、衣文の襞、台座の蓮弁のあたりに、かすかに朱色が残っている。あまりにもあわいが、これが「白鳳の朱」仄かな歴史の奥に、当時のお姫さまのお姿が偲ばれて、何とも閑雅である。

 

この石仏は、一説には『万葉集』に登場する情熱のヒロインともいうべき、額田王の念持仏だったという説もあるがさだかではない。額田王といえば、私か戦時中に『万葉集』に凝った時、当時のネオ・ロマンチシズムの指導者である浅野晃氏の指導により「額田王」という400字詰用紙300枚ほどの論文を書いたことがある。残念ながら、その原稿ぱ杉並区善福寺の浅野氏の自宅が戦災で焼けた時に、焼けてしまい、日の目をみなかったが、当時はそれほど額田王に傾倒していた。額田王が万葉集に発表した歌は、わずか十余首に過ぎない。しかし、全部が絢爛たる傑作である。

 

ところで彼女がロマンスのヒロインとして登場するのは、天智大皇(中大兄皇子)と天武天皇(大海人皇子)の兄弟に愛されて、ついに壬甲の乱(672)に至る、万葉の歴史のクライマックスのヒロインとしてであろう。額田王はどうも最後まで天武天皇に愛情を持っていたようで、天皇との間に十市皇女をもうけている。天智天皇は額田王への恋心を、『万葉集』に掲載された、大和三山の歌に託して表わしている。しかし、天皇兄弟の間に、おそらく彼女を中心として発生したであろう争い事が起こり、やがてこれが壬申の乱になり、そして彼女は天智天皇に従って近江京へ移っている。ここで詠んだ  あかねさす 紫野ゆき標野ゆきの野守は 見ずや 君が袖ふる と詠んだ額田王の歌は、彼女はすでに第37代斉明天皇の九州行に参加し伊予松山で熟田津の歌を詠んでいるので、それから推察すると、この歌を詠んだ時は、若くはなかったと思われるのだが、この歌のみずみずしさはどうだろう。 近江の八日市市にある市神神社に額田王の等身大の生々しい人形(中身は300年前の古いものらしい) を見たが、石位寺の中尊の唇に残る紅を見て、姫の口紅とも見え一層額田王が偲ばれたのである。彼女は近江京で大智天皇を失ったのち、大和に戻り、このあたりで晩年を過ごしたのかも知れないが、その時のことはよくわかっていない。近くに姉といわれていた鏡女王(近頃は血縁なしとの説が有力)の墓や、栗原寺という彼女ゆかりといわれるかの跡もあるので、余計この三尊の背後に、万葉の美しかったはずのヒロイン、額田王のシルエットが浮かぶのである。」