⑧奈良の地名の由來を歩く


2010年4月発行 KKベストセラーズ

忍阪の名前の由來は諸説があります。これは谷川彰英という筑波大学教授で現在ノンフィクション作家で地名研究の第一人者ということです。まず本文から「忍阪」に関する所を御覧ください。

 

「忍阪」と書いて「おっさか」と読ませるのには、どんな根拠があるのか。『奈良の地名 由来辞典』には、「オシは『凡』で、『大』の意味」とあるが、たぶんそれは違う。「凡」 とは「ボン」「ハン」とは読むが、「おお」と読むケースは私か見た範囲ではない。  「忍阪」は文字通り、「忍ぶ坂」であったに違いない。現在は「忍阪」と表記しているが、 明治二二年までは「忍坂」であった。「忍び」とは「隠れること。人目を避けること」で ある。五七頁の図を見ていただければわかることだが、忍阪は現在の桜井駅の東から女寄 峠を越えて大宇陀に出る街道である。この坂は昔より、北を東西に走る初瀬街道に比して、「忍び」の街道だったのではない か 初瀬街道はいわば、伊勢と大和と難波を結ぶ大街道であり、いわば長街道であった。それに対して、忍坂はひっそりと陰に隠れた道であっだろう。だから、もともとは「忍ぶ 坂」であったのだが、それがいつしか「おっ坂」に転誂した。それはなぜか。  それを解く鍵は、この「忍」という漢字にある。実はこの「忍」という漢字は「名よ り」(人名)としては「おし」と読まれることがある。その典型は「刑部親王」(?~七〇 五)である。天武天皇の皇子で、「忍壁」とも「忍阪部」とも古く。六八一年に帝紀など の修史事業に携わった後、大宝元年(七〇一年)に藤原不比等らと大宝律令を編纂した。  もともとこの坂は忍ぶ道であった上に、峠までかなり長く続く道で、その意味では「忍 ぶ」(がまんする)道であった。その「忍ぶ坂」が人名で使われるように、音が「おし」 「おさ」に転比し、その結果として「おっさか」となったと推測される。」 とあります。

 

個人的には忍阪(忍坂)は元々忍阪(忍坂)と表記されていたのではなく我が国最古の金石文の一つと言われている和歌山県の隅田八幡宮所蔵の人物画像鏡には意柴沙加(おしさか)と刻印されており以後も男坂、押坂、恩坂等いろんな表記がされています。又、著者が「オシは『凡』で、『大』の意味」とあるが、「おお」と読むケースは見た範囲ではない」と述べていますが別の学者(武光誠)は凡坂(おおしさか)は大きな坂を表す古代語であるとのことで見解が別れます。鶏が先か卵が先か・・になりますが私は允恭天皇皇后の忍坂大中姫の宮があった意柴沙加宮に仕える役人を刑部(忍坂部)と呼んだことから後世に「おしさか」「おさか」「おっさか」に、ふさわしい当て字として「忍坂」や「忍阪」が用いられるようになったのではないかと考えていますがどうなんでしょう?