①飛鳥古京 (岸 哲男)


1970年 写真評論社
著者は『カメラ毎日』の元編集長で「飛鳥の自然はなくなっても、万葉研究・古代史研究のための飛鳥を残したい」という思いで撮った写真に、その写真を撮った意図を明確にする為に説明文も自身で書かれています。タイトルは飛鳥となっているので現在の明日香村をイメージしてしまいますが本書は古代の飛鳥というとらえ方でとらえられています。ただ古墳関連の説明文で数か所おかしいところがあるのですが、古墳の研究者ではないし仕方ないでしょう。それより今となっては大変貴重な当時の写真を見るだけで価値がある本だと思います。

以下原文より

桜井を出て古事記の鳥見山すそを伝い、外山で初瀬道とわかれて右へ取ると忍坂である。その山ふところの奥まったところに中大兄皇子の父舒明天皇押坂内陵があり、天皇の母の糠手姫皇女と合葬されている。天皇の父は押坂彦人大兄皇子(敏達天皇の皇子)であり、その名からみて代々この土地と関係が深かったと思われる。だから天皇の歌の夕されば小椋の山に鳴く鹿は今夜は鳴かずい寝にけらしも(巻八、51)の小椋山を、この忍坂山の東南の一峰に求める説もある。ほかに多武峰の東、忍坂の南向いにそびえる音羽山をそれにあてる説があって、このほうが有力である。音羽山は、古事記や万葉の倉梯山に当てられている。この歌は題詞に「岡本天皇御製歌一首」とあるため舒明天皇の「飛鳥岡本宮」に対して「後飛鳥岡本宮」宮居した皇后の斉明天皇を作者に当てることもできるが、明快で単純、澄み透った典雅な音律、万葉集中の最高峰の一つで、「渾一体の境界にあって、こまごましい剖析をゆるさない」とまで斎藤茂吉はいっている。天皇はもう一首、万葉集巻頭に、次のだれでも知っている国見の歌を残している。国見は初春、天皇が山の高みに登って、その年の豊作を予祝する儀式であった。

 

天皇、香具山に登りて望国したまふ時の御製歌大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は 煙立ち立つ 海原は 鴎立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は(巻一、2)

 

葉集には、忍坂の土地讃めの長歌一首(巻13、3331)があり、それが挽歌に組み入れられていることから察して、このあたりは古代人の墳墓の地だったと思われる。忍坂から朝倉団地と、「隠国の泊瀬」と呼ばれた長谷、吉隠にかけてほ古墳基が多い。また多武峰にのぼる道のに途中、倉橋川に沿うせまい耕地のなかには、蘇我馬子の密命をおびた東漢直駒によって暗殺された崇峻天皇の陵がある。天皇の倉梯柴垣宮の跡はどこかわからないが、やはりこの倉橋地内だったのであろう。殺された天皇はモガリ宮(陵墓に埋葬されるまでのあいだ、遺体を安置してシノビゴトを奉る)もおなわず、その日のうちに倉梯岡上陵に葬られた。しかしそれにしてもこの崇峻陵はあまりに規模が小さく、ただの墳丘でしかない。そのためここを崇峻陵とすることには疑問があるとされ、一・六キロ東方にあ各赤坂天王山古墳が方形の墳丘と壮大な横穴式石室をそなえているので、それではないかともいわれる。

鏡王女簿
鏡王女簿
鏡王女墓
鏡王女墓

石位寺薬師三尊石仏
石位寺薬師三尊石仏
舒明天皇陵
舒明天皇陵