崇峻天皇陵(倉橋) 陵墓


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第32代崇峻天皇の倉梯岡上陵(くらはしのおかもへのみささぎ)は倉橋のバス停から南に下った倉橋川沿いにあります。崇峻天皇は欽明天皇の第12子で母は蘇我稲目の女、小姉君(おあねのきみ)で日本書紀によると蘇我馬子に擁立され倉橋に宮殿を置き政務をとっていましたが即位して5年後の崇峻5年10月(592年)天皇は献上されたイノシシを指さして「いずれこの猪の首を斬るように憎いと思う人を切りたいものだ」と側近に漏らしたが馬子は悪い人とは自分のことではないかと恐れ部下の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)を差し向け暗殺をはかり、その日のうちに「倉橋岡陵」に葬ったと言われています。

 

一般に延喜式では陵墓の兆域と陵戸が書かれていますがこの崇峻陵に関しては無く特異な例になっていますが、これは天皇暗殺と即日埋葬とからこうなったと理解されています。

 

しかしながら、この崇峻陵が古墳かどうかについては、ほとんどの研究者は否定的な立場で明治22年まで崇峻陵とされていた赤坂天王山古墳こそ真の崇峻天皇陵であろうという見解です。現陵は墳丘図を見てもわかるように直径約35m、高さ約1mの円形の高まりは認められるが、立地やその規模からも可能性はないと思われます。墳丘の高まりは元々この場所(天皇屋敷と呼ばれていた)にあった観音堂という寺の土壇の可能性が高く当時の埋葬形式である横穴式石室の痕跡が全く見られません。これに対し赤坂天王山古墳は被葬者の没年と築造の時代がほぼ一致し(6世紀末~7世紀初頭)その規模(大型方墳)からも、天皇陵の可能性が高いと言えるでしょう。

 

尚、陵は一周出来ますので墳丘を見れば古墳ではないことがすぐにわかると思います。陵のすぐ横を倉梯川が流れていますが、この時代にこのような立地に古墳を作ることはまず考えれないと思われます。